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鍾離の戦いに陳慶之がいたら?  

前回は中国史上の知る人ぞ知る名将、陳慶之の強さの秘密について書きました。
今回は陳慶之と鍾離の戦いについて。

ええ、僕も田中芳樹先生の『奔流』で陳慶之を知りましたから。

『奔流』は6世紀の南北朝の大会戦、鍾離の戦い(wiki)を舞台にした歴史小説です。
陳慶之をはじめ、何人かのゲストが登場し、この会戦を活写します。




でも、この作品に陳慶之を出す意味があったのか?
また、陳慶之が鍾離の戦いに立ち会ったことは、彼の人生と中国の歴史に何をもたらしたのか?
妄想的な追記になります。

http://togetter.com/li/644834で書いた物を膨らませています。


まず、前回のおさらいです。

陳慶之(の軍)はなぜ強かったのか?
・オール騎兵の軍を率いていたから
・その軍が彼の動かしやすいように年月をかけて鍛えられていたから
・その軍に汎用性があったから(現代の特殊部隊のようなもの)
・情報を効果的に運用したから
・戦いそのものをデザインして、そのつもりで戦力を準備していたから

まとめると、戦力がまず強くて、運用するやつが強かった、です。
なんでそうできたのか?

ここで、鍾離の戦いが出てきます。


鍾離の戦いは6世紀の初頭、紀元506-7年に安徽省で起きた、北朝の北魏と南朝の梁との会戦です。
攻める北軍が80万、守る南軍が20万とか、幅2㎞の川に騎兵が10列で通れるサイズの浮橋をかけるとか、わけのわからない規模の軍を動員していて、まー派手な戦いです。スゲーよ中国。
この戦いの一部始終を描いたのが『奔流』。


ここに陳慶之がゲストとして登場します。
じゃあ、彼が何をしたのか?となると、あまり記憶にない。
古参の将軍にスゴイヤツだと紹介されたのと、北軍が浮橋を使って攻めてくるのを見破ったくらいです。

当時はふんふん言って読んでましたが、今だと「?」なところが多い。


きのう陳慶之を調べていた時に思ったのが、「じゃあ具体的に、7000で数十万に勝つのにはどうしたらよいのだ?」ということを考えた人がほとんどいないこと。陳慶之が神がかって強かったことは知っているけど、「なぜ?」への言及がない。

これは田中芳樹先生についても感じます。陳慶之についても、彼がモチーフになったであろうヤン・ウェンリーにしても。

というのが、前回を踏まえて「鍾離の戦いに陳慶之がいた!」を考えるなら、起きていなければならないことがあるように思うからです。


田中芳樹先生ほどの作家なら、これは気づいていれば絶対に使っているはず。
つっても『奔流』を見返して裏を取ったわけじゃないので、もし間違っていたらごめんなさい。
10年以上前の記憶と、ネット上の情報から逆算して書いています。



では、鍾離の戦いに陳慶之がいた場合、それが何をもたらすのか?
まず、鍾離の戦い→陳慶之から。
答えは、本気の北魏をつぶさに見た経験です。
80万の大軍、その中にいたであろう数万規模の騎兵隊、その更に中にいる異民族の騎兵部隊。
十万単位の軍が動き回る戦場。。。。攻める方も守る方も総力を挙げています。
率いる将も当時の中国を代表する大物ばかり。文字通りの世界大戦です。

その、ナマの経験。
今の自分たちに何ができて何ができないのか、自分たちの敵がどんな存在でどう動くのか。
それを十二分に見聞できたのではないでしょうか。想像して、対策ができるほどに。


ここで、このイベントのもう一つの側面、陳慶之→鍾離の戦い、が絡んできます。
彼が鍾離の戦いにいたら、何ができていたのか?、という問題。
これは「鍾離の戦いに陳慶之の記録がない」が全てだと思います。陳慶之の大敗もなければ大勝もない。

敵の騎兵の特性を見切って痛撃する、くらいまではできていたと思います。
でもまだ動かせる兵が少ないし兵も育っていないので、効果が限定的。記録に名前が残らない程度。
また、大軍と戦ったり大規模な騎馬隊やら本格的な異民族騎兵と戦うのも経験がなかったはずなので、結構ボッコボコにされてると思います。どんな名将でも10倍の敵に完全包囲されたら士気勝ちか質勝ちしてない限りまず無理でしょうし。
記録に残らないレベルで勝ったり負けたりをして、最後の方は勝てるようになって終わったのではないでしょうか。

道原かつみのコミック版の銀河英雄伝説で、士官学校時代のミッターマイヤーがシミュレーターをやっているとき、自軍の設定について文句を言うシーンがあります。
で、教官に「味方の底上げはもっと上の学年にいかないとできない」とたしなめられる。

コレと似たようなことが、起きたのではないか?
つまり、「味方がこうできれば勝てるのに!」というもどかしさの経験。
北魏軍の強さを感じて恐怖すると同時だと思う。

何が足りないか、何をしたいか、そこに何があるのか、そういうのが全部わかるのが、超一流の環境の良さだと思います。
陳慶之が鍾離の戦いにいたら、こうして世界そのものに触れることによって、自分(たち)の限界とヤリタイコトを明確にイメージできたのではないでしょうか?


陳慶之の白袍隊が活躍する北伐は、この鍾離の戦いから23年後の529年です。
彼は南朝の皇帝(梁の武帝)に取り立てられてからすぐ、私兵を集め出しています。
鍾離の戦いの頃にもいたはずです。500人だか2000人だか知りませんが。


その兵がどんな敵と戦うのか、勝ち残るために何が求められるのか。
一番大事な「イメージ」を作るお手本や、生データがこの鍾離の戦いで手に入ったのではないか?
それは時代の風と言ってもいい。人間の心を強く動かし、ナニカを作らせるきっかけです。
陳慶之の場合は、そのナニカが軍事の方向に花開いた。20年の歳月は、そのイメージを形にするには十分な時間です。
彼には、それを形にできる地位もリソースもあります。

鍾離の戦いのときの陳慶之は23歳。今の年齢と比較するのは間違いですが(堺屋太一のチンギスハーン式に換算すると30手前位に相当)、多感で気概に満ち溢れている時期です。

そういう切っ掛けになるのに十分なインパクトを、鍾離の戦いは持ちえたと思うのです。
前回で言うところの、グランドデザインのタネになったというわけです。


陳慶之が鍾離の戦いにいたことを肯定する資料は、2014年3月の段階ではないそうです。
私は、いたのではないかと思います。北伐の快進撃の説明がつくから。


―陳慶之と白袍隊の快進撃は、彼が鍾離の戦いに立ち会った瞬間から生まれていった。―

すっきりっぽい結論が出たところで、筆をおきます。











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