Blinking Shadow ホーム » スポンサー広告 » ほかアニメ・マンガ »2007年時点のネウロ感想

スポンサーサイト  

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

category: スポンサー広告

tb: --   cm: --

2007年時点のネウロ感想  

『暗殺教室』が大ヒットです。
作者の松井先生、ネウロ時代から応援していました。
いや、今まで見た中でSSランクを付ける漫画はネウロだけです。次点でSが蒼天航路。
当時の世界はまだ、まどマギもガンダムAGEも知らなかったわけですが。。。

てことで昔の記事を引っ張り出してみます。
2007年8月11日のMixi日記より。HAL編終わって血族出てくる前後あたりの感想。

※作品への基本的な評価は変わっていませんが、引用している情報が古かったりします。





 




幕間【おすすめまんが】

ネウロ風にやってみる。
『魔人探偵 脳噛ネウロ』



(2013年3月25日付記)
文庫出てますが、あえてこっちをお勧めにしておきます。
ネウロがなんで面白かったのか?コレ、あとでジャンプの増刊号で松井先生が手の内を語った時に「なるほど!」でした。



「人間の生み出す謎を食べる」ために魔界から来た生物“ネウロ”。このネウロに目をつけられてしまった普通の(?)女子高生・桂木弥子(ヤコ)がネウロと二人三脚で様々な変態犯罪者と対峙していくミステリーっつーかアクションッつーか娯楽マンガである。週刊少年ジャンプ連載中。


前読んだときも思ったが、俺は『蒼天航路』並にこの作品が好きだ。
つまりは今まで読んだマンガの中でトップクラスにメチャメチャ期待をしている。
(年末までに連載終了の恐れがあるが)

なんでだろう、ってちょっと考えてみた。


大前提として、この作品が週刊掲載ものには珍しい「テーマが一貫」していて「伏線が入念に張られている」作品であることがある。この条件を満たしているだけでも「名作」と呼ばれるには十二分であるのだが、それだけでもなさそうだ。


『ネウロ』の大きなテーマは「人を解き明かしていく」ことにある。
「人間が理解しあう」とか「人を理解する」ってのはどんなジャンルであれ、創作の永遠のテーマだろうけど、それを真っ向から言葉にしてる作品ってそんなに記憶になかったように思う。『ネウロ』は(少なくとも建前上は)推理モノだから、犯罪を媒介して犯罪者とか主人公とか周りの人々がいろいろな形で交わり、描写されてゆく。

ここまでも、まだありきたり。


で、次に目を引くのが“敵”の際立ったグロテスクさ。
魔人が主人公なのだが、魔人属性をもつ登場人物は連載2年が経過した今でもまだ主人公だけで、主人公達が対峙するのは常に欲望をグロテスクに肥大させた人間達だ。この「敵を一貫して人間のままに留める」というポリシーは秀逸な敵描写(寄生獣+ベルセルクと考えればほぼ間違いない)と相まって、構図とか発想とともに含めて作者の「画でものを表現する」センスとして一つの大きな魅力になっている(まさに“絵になる”)。



が、この作品の本当の魅力はさらに深いところにある。
それは作者自身の物作りに対する姿勢である。上述のように『ネウロ』の絵はとてもグロテスクだし、決して美しかったり(ある方向では非常に洗練されて美しいが)上手であったりするわけではない。だが、読んでいてどうしようもない安心感がある。作者の人間に対する姿勢が劇中世界に反映されているからだ。

この作者の人間観、偏見がない?からなのか、とても温かい。

劇中のヤコは犯罪者や被害者にかける一言のために悩み、膨大な準備や苦労(&痛み)をいとわないで相手を理解しようとする少女である。実はこれってすごく新鮮なんだよな。

カッコいいことをいうフィクションの人物なぞ、それこそ枚挙に暇がない。
てかキャラクターなんてセリフあって何ぼだし。でも、かっこいいセリフは実際には決して簡単には出てこない。
簡単に思いついてズバっと言えるからすごいのかもしれないけど、そのセリフが「生み出される」過程をここまで丹念に描いた作品ってこれ以外にみたことがない。でも人が人を理解するのって本来は足を棒にして脳みそに汗をかく真摯な努力の積み重ねがあってもいいはずなんだよな。


ヤコはいわゆる「コミュニケーション能力が潜在的に高」く、「とてもポジティブ」な人間である。表象の些細な動きに引っ掛かりを感じる感性を持ち、それに恐れず踏み込むガッツと、その結果を相手に伝える一語を選ぶのに悩む繊細さを持つ。だから、登場人物の変態コンクールとも言うべきデフォルメがどんなに過剰になされていようと、展開されているものは重厚な人間ドラマに他ならなくて、「○○と話をしたい」というヤコのモノローグが非常に光って見えて素直に共感できる。


この点、『蒼天航路』の曹操とヤコには生き方というか「人間への姿勢」の芯の太いところで共通点がある(つまりは作者の作品姿勢が共通するということでもある)。人を解するために中国全土に戦いの旅をした曹操と、「魚肉!もっと魚肉を!」の台詞とともに世界最高の脳科学者の心を3日で「解き明かした」ヤコは、実は似たような作業をしている。人を「知る」ということへの痛快なまでの貪欲さだ。ヤコは人間臭く怖がったりもするが、彼女が人の精神自体を否定したシーンはない。

彼女も曹操も、人を知ることにためらいを持たず、そのための努力に疑問すら持たない人間たちである。
こういうことをいやみなく自然にできるキャラって実は少ない。作品は作者の人間観を反映するわけで、どうしても肩に力が入りやすい部分になる。まぁヤコと曹操には、この過程が「泥臭いかどうか」という大きな違いはあるが。



関連して、『ネウロ』の魅力を深めるのが登場人物たちである。
いい作品はえてして「キャラを大切にする」ものであるが、この作品では特にX(サイ)というライバル(?)の存在が大きい(他の脇役達の存在感が軽いわけではない)。

Xは際立った身体能力に加え、どんな人間にでも化けられる変身能力を持つ「人間」である。どんどん記憶をなくしていく奇病に侵されており、自分のルーツを知るために他人を殺して細胞を観察(!)しようとするサイは、「人間ではない」存在ネウロに興味を持ち、執拗に付け狙う。

かくして、「自分を求めるサイ」「他者を解していくヤコ」、そういう人間達を透徹した目で見つめる「人間じゃないネウロ」というコントラストが成立する。この3人の織り成す空間の和み方がとてもよい。こういうときのキャラの表情なんて作者の人間観そのものだろうし。(サイアイの掛け合いに癒されますハイ)


自分を知る、
人間を知る、
人間のいる世界を作品として表現する

そうしたときの、姿勢や深さで『蒼天』の王欣太と『ネウロ』の松井優征のスタンスは似ている。自分も、作り手として物を世に送り出すときにはこういう仕事をしたいものである。


てかサイがせつな過ぎるんだよな。自分を奪回するために「手段を選ばず」戦う、という一点において、彼には非常に共感できる。もっとも、こいつの外見がたもっさんとかだったら果たして共感を得るのかは微妙だが。

参考画像
たもっさん

たもっさん




名作と思う漫画は数が多い(注1)のだが、俺が次に金出して(&空間コスト提供して)全巻そろえるなら『でろでろ』かこのネウロになりそうだ。


それにしても、初期のネウロを打ち切りにさせなかった集英社はやはりすごい。さすがというべきか。
(この作品の面白さは3巻辺りから加速する)やっぱりドーピングコンソメスープ(注2)のおかげ?


てか、俺的にベストヒロインてのは不世出の覇王・ラクスクラインでも遠藤カンナでもなく、この「人を理解するための汗をいとわない」桂木弥子のようだ。これは間違いない。ヤコを生み出した松井優征の仕事観のありようこそがヤコの魅力の正体なわけだが。

とはいえ。「ヤコのように生きたい」とか面接で言ったらその瞬間に人格疑われて落とされることもまた、明白である。(研究者としてもプロとしても人間としても絶対はずしちゃいけない一線であるにも拘らず)。まぁ「対象に偏見をもたず、知りたいと思ったこと、疑問に感じたことにはとことん貪欲に踏み込んでいくガッツを大切にしたいです」とか言えばいいわけだが。



注1
ざっと思い浮かぶだけでも、岩明均系・藤田和日朗系・村上もとか系ていうか『蒼天航路』に『でろでろ』に『エリア88』に目盾21に米原系にかわぐちかいじ系に徳弘正也系に浦澤系に三浦健太郎系に小山ゆう系に椎名高志系に藤崎竜系に幸村誠系に『はじめの一歩』に『新撰組黙示録』に『不思議な少年』にと枚挙に暇がない。
こうしてみるとジャンプで名作とばすのってやっぱ相当難しいんだな(終わらせ時の関係)。

注2
ドーピングコンソメスープ
筋肉増強剤や覚せい剤が大量に含まれているコンソメスープ。飲むと瞬間的に超人的な力を得ることができる。




その2・2007年8月13日時点の感想

【イミナの忌み名】

なんだかんだでイミナ(=アイ)関連で日記を書きたくなるのは二度目だ。
ネウロちゃんと読み始めたのはこの人のエピソードが出てきてからなわけで。

ネカフェの帰りに持ち帰りコーナーで昔のジャンプ(30号)を持ち帰る。ネウロ読み返す。
「過去が語られた脇役が死ぬ」というのはある意味御約束だが、読み返してみるとアイの物語上の役割(サイの受容者、あるいは自分の進化を否定する人間の理解者)も何話もの伏線を張ってヤコに引き継がれている。

サイの目的をただ一人全肯定して応援していた立ち位置にあったのがアイなわけだが、そのアイはヤコを「希望」として見ているフシがある。そもそも人間の可能性に絶望していたのがアイだし、サイに出会うことが彼女自身の絶望を消したわけでもない。(アイはサイの“手伝い”はできても、アイの未来を開く可能性はあくまでサイしか持たない一方、アイ自身がサイの絶望を直接的に消すことはできない)


従って、
①これまでのヤコの能力発揮振り
②ヤコとアイの絡み具合
③アイの出自のエピソード
④アイのヤコへの「発見」
という非常に息の長いプロセスを経て、「ヤコがサイを理解する」お膳立てが整いつつあることになる。

イコール、「ヤコがアイの気持ちをサイに伝える」ってのは十分に妥当な展開であるわけで。


追悼動画なんぞをみていて、これから誰がサイに膝を貸せるのかねぇなどと考えるが、ちゃんとバトンタッチされてたのネと納得。つまり彼女は語るべきことを語り終え、役割を終えて消えていったことになる。


してみると、いい物語の条件ってのは「強烈な存在感のあるキャラクターがいること」で、その「存在感」というものはその人の「人となりが集約された一点」がどう描かれたか、あるいはその人が「何を一番大事にして生きている(いた)か」がしっかり描かれたかどうか、で決まるんじゃないか、などと思う。




  



このエントリーをはてなブックマークに追加

 

にほんブログ村 アニメブログへ
にほんブログ村
関連記事
スポンサーサイト

category: ほかアニメ・マンガ

thread: 漫画

janre: アニメ・コミック

tb: 0   cm: 0

コメント

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://chiqfudoki.blog.fc2.com/tb.php/274-6dcd5f90
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

プロフィール

検索フォーム

最新記事

最新コメント

アクセスカウンター

オススメ

▲ Pagetop

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。